庭についての

  
ガーデニング−英国式庭園
  
日本の庭の系譜
 −大名庭園
 −江戸期までの庭園
 −エンターテインメントとしての庭
   
それ以外の、庶民にとっての“庭”は? −ヒントがここに
              植物とのかかわり方は?
  
 →そのエッセンスは活かせる

英国式でもない、大名庭園でもない“庭”
 室礼?、茶室はどちらに?つくり方?
  
  
「囲う」、settingするという概念
 →(変換)→①[現代]世界のどこでもが庭、という視点から書く
        (こちらは随筆風か!?)
  
       ②囲う、室礼という視点から現代に置き換えてエッセンスを
        書く(ライフデザイン的な感じ)

夜のはじまり

  
一日でもっとも好きな時間はいつですか。
  
もう何年も前からその応えは決まっていて、
ちゃんと用意してある。
  
それは夜のはじまりの刻。
ちょうど多分地平線に陽が沈みきったすこし後。
深い青へと傾いてゆくまでに、滲んだような、湿気を帯びた
青に包まれる時間がある。
子どものころ、夏、その時間に家路につくとかならず、
もう帰れないような寂しさと同時に、辻を曲がると
ふっとちがう世界へのとびらが用意されているような
はてしない自由が広がっているような、そんな気持ちになった。
  
その時刻には、決まってある匂いがして、それは今思えば
夜のはじまりの匂い、そしてどこかへ羽ばたけるような匂いとして、
私のキオクにしみこんでいる。
  
今日帰りがけにその匂いをふっと嗅いだ。
ああ、あの薫りだ。
この薫りは何でできているのだろう。
  
今宵感じたレシピはこうだ。
  
□夜のはじまりの薫りの作り方
夏の気配、湿り気、ほのかな風。
それに夜になると生き生きとしはじめる、艶かしい植物たちを加える。
  
ああ、そうか。
夜は彼らの時間なのかもしれない。
だからその気配にあてられて、ヒトは解き放たれるのかもしれない。
  
  
  
  

朝のはじまり

  
物音で目が覚める。夢の深いところで目覚めたからか、気だるい朝。
体が起きない。座っている。
  
どんな夢だったか、その時間を経た気配だけがはっきりと残っている。
そう、こんな時いつも思うのだが、夢では認識はコトバではないらしい、
ということだ。気持ちの余韻、気配だけが薫りのように残り、
出来事やすじだては消えていく。
ぼんやりと思い出せるのは、どこか見たことのない場所で、
あたらしくオープンをしたらしい店のメニューに「タマゴとココロのセパレーツ」
という品があった、ということぐらいだ。
その店は、ルコントの映画にでてきそうな色合いの、ちょっと儚い
そしてちょっと可愛らしい趣きの店だった。
  
珈琲を入れてもらう。
のみやすい熱さで嬉しい。
  
  
最近は梅雨らしく、おおむね雨が曇りの空模様だ。
この家に住んで、年を経て、雨の日のよさ、静けさ、柔らかさ、
1枚布を通したような光の心地よさを、いいものだと思うように
なってきた。
休みに動きまわるでもなく、ほんのりと蠢く気だるさに少し身をまかせ、
どこまでも遠くへとイメージをふくらます。実際は、音から感じる
外の世界のようすを細やかに想像してみる、といった具合だが。
  
そう、ここはシェルターのようなのだ。
  
カーテンを白くしようか。ここに入るまっすぐではない光が
柔らかくさしこむように。
1日中、すこし湿った、露のような光につつまれる場所になるだろう。
シェルターとしてはそういうのも悪くない。
  
大きい鉢を置こう。
葉のついた植物を。葉を見上げられるくらいの大きさがいい。
珈琲を飲みながら、陽にすけた葉脈がゆらめくのを見上げよう。
葉は大きいほうがいい。
  
  
こんなたわいもないことを考えているうちに、庭の系譜について
思いついたこと、調べてみたいことが浮かんできた。
  

  
  

シェルターにて

目覚めると、しっとり汗ばんだ夏の朝の気配。
シェルターの朝は静かだ。
鳥の声のグラデーションがあるだけ。
今日もうす曇り。グレーの光は、けだるいわが身には
やさしく感じるものだ。
  
窓をあけると、さぁっと吹き込む意外なほどのやわらかい風。
この緑のシェルターでも、夜の間に身を潜めると
それなりに閉じた空気になるのだとふと思う。
風に身をあて、つかの間濾過されたような気になる。
  
家人が植えた窓辺のミニトマトが芽をだした。
一度花をつけたシクラメンは、次つぎに葉を出し
新たな季節をむかえようとしている。
  
シェルターはひっそりと生き物が息づく場所。
密やかな海の底にも似ている。
  
  

肌寒い朝

明け方から響く雉の声。呼応するように遠くに聴こえる鳥達の声。
お天気のせいだろうか、眠っている間も遠くに行きながら
考えつづけていたような目覚め。
  
ここは緑に囲まれたシェルターのようなところ。
どの窓からも緑を感じ、今日の様子をたしかめることができる。
毎夜帰り道、ある坂を川にむかって下りはじめると
とたんにさぁっと風が立ち上がって、ここからは別のエリアなのだ
というサインを送ってくる。
その坂を下る間、徐々に生き物に戻っている気がするものだ。
  
寺の脇を横切る時には、家の向かい、川に沿って広がる緑の世界が
静かだが深い緑の布を揺らめかすような存在感を伝えている。

道を渡る時、ふっと霧の深いところから今日も抜け出してきたような、
帰ってきたような、そんな気が日々するのだった。

哀しいまでの天国のような

  
外出の合間のちょっとした時間。
スーパースクールの卒業生、寺本さんが主催している
フォトグラフィックス・ギャラリー、
PUNCTUM(http://www.punctum.jp/)へ。
今日から、在本彌生さんの写真展がはじまるのだ。
http://www.punctum.jp/arimoto.html
  
  
寺本さんの人柄あって、PUNCTUMはとても居心地のよい場所に
なっている。京橋というオフィス街にありながら、ぽっかりと
シェルターのような空気の場所。初めてお目にかかったときも、
寺本さんは、とても気さくに話をしてくれて、在本さんの
写真展の初日にはご本人が在廊しているかも、と教えてくれた。
  
初めてお目にかかった在本さんは、やっぱりどこか彼岸の、
自らの空気をまとった素敵な方だった。凛としていながら、
浮遊しているような、でもどこかとてもたくましい女性。
やわらかく、オープンなのに、どこか覚悟をきめている人。
  
写真集もすごく素晴らしく(MAGICAL TRANSIT DAYS)、
ああ、久しぶりに好きだなと思える写真に出会ったと
思ったのだけれど、オリジナルプリントは、ほんとうに
素晴らしかった。光、透明感、夜、人、交わり。
痛いくらいに伝わってくる。ここはどこだろう、哀しいまでに
天国のような瞬間。でもその瞬間は儚く脆く、でも確かだ。
ひとりひとりが花となる。
  
人に、世界にわけいるチカラ。
違和感や、共感を重ねて、その接点でシャッターを押す。
私が見ています、と誰かに伝えるような。
誰か見ていて、どこかに祈るような。
  
  
 

能動的になにもしない

  
今日はひたすらぼーっとして頭をあまり使わない一日だった。
見たい番組をうつらうつらしながら見て、いつのまにかうたた寝
どうやら先週今週とハードだったので、静かな疲れが
残っているようだ。
  
力をいれずに一日をすごし、一週間の間に入ってきたこと、
出来事、感じたことが、なんとなくグルグルとシャッフルされて、
漉されていくような。
  
そんな感じだ。
  
今日のメニューは
おつまみに、お豆腐の味噌ザーサイソースがけ
マグロのづけ丼
わさびマヨネーズサラダ
かぶのゴマ煮
  
なかなか好評だった。
よかった、美味しいゆったりしたご飯はいいものだ。
  
来週からも忙しそう。頭の処理は追いつくだろうか。