朝のはじまり

  
物音で目が覚める。夢の深いところで目覚めたからか、気だるい朝。
体が起きない。座っている。
  
どんな夢だったか、その時間を経た気配だけがはっきりと残っている。
そう、こんな時いつも思うのだが、夢では認識はコトバではないらしい、
ということだ。気持ちの余韻、気配だけが薫りのように残り、
出来事やすじだては消えていく。
ぼんやりと思い出せるのは、どこか見たことのない場所で、
あたらしくオープンをしたらしい店のメニューに「タマゴとココロのセパレーツ」
という品があった、ということぐらいだ。
その店は、ルコントの映画にでてきそうな色合いの、ちょっと儚い
そしてちょっと可愛らしい趣きの店だった。
  
珈琲を入れてもらう。
のみやすい熱さで嬉しい。
  
  
最近は梅雨らしく、おおむね雨が曇りの空模様だ。
この家に住んで、年を経て、雨の日のよさ、静けさ、柔らかさ、
1枚布を通したような光の心地よさを、いいものだと思うように
なってきた。
休みに動きまわるでもなく、ほんのりと蠢く気だるさに少し身をまかせ、
どこまでも遠くへとイメージをふくらます。実際は、音から感じる
外の世界のようすを細やかに想像してみる、といった具合だが。
  
そう、ここはシェルターのようなのだ。
  
カーテンを白くしようか。ここに入るまっすぐではない光が
柔らかくさしこむように。
1日中、すこし湿った、露のような光につつまれる場所になるだろう。
シェルターとしてはそういうのも悪くない。
  
大きい鉢を置こう。
葉のついた植物を。葉を見上げられるくらいの大きさがいい。
珈琲を飲みながら、陽にすけた葉脈がゆらめくのを見上げよう。
葉は大きいほうがいい。
  
  
こんなたわいもないことを考えているうちに、庭の系譜について
思いついたこと、調べてみたいことが浮かんできた。